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naka_nora89’s blog

思うがままに、あるがままに。

マイ・プライベート・オピニオン

不理解、と見せかけた無理解。無理解、と見せかけた不理解。

どっちでも似たようなものなのだけれど、それはこの日本の迷惑観念と密だ。

理解できないから迷惑、理解したくないから迷惑。

なぜ、理解できなくて、したくもないものに困らせられねばならぬのかと憤慨し皆スマホの画面を睨んで人をやり過ごす。

そして理解の範疇のみを愛する。

理解の範疇を超えればそれは敵。

あなたの隣の席に車いすの人がいる。あなたはまだ巻き込まれていない。けれどきっとあなたの心には薄ぼんやりと迷惑が宿る。

巻き込まれたくない。理解の及ばない人といると扱いに困るから迷惑。そう思っている人はいっぱい居ると思う。

でも、しょうがないのだ。あなたは全知全能ではないし、介護の経験もほぼなければ、友人に障害者のいない人だって居ることだろう。でもあなたの理解の及ばないことはこの世に五万とある。わたしにも介護の経験はないし、もちろん全知全能なんかじゃない。

でもわたしは不理解でも無理解でもない。

わたしは知ろうとする。義足で歩く感覚ってどう?耳が聞こえないってどう?目が見えないってどう?

それを健常な人ほど「失礼だ」とか言う。

なぜ?

なにが失礼なの?健常者同士で「背が高いってどんな感じ?」と聞いているのと大した差はないように感じるんだけど。

不自由がさも悲しいことのように、区別しているのは乗り越えて生きている人にとって煩わしくて、逆迷惑だと思うのよね。

パラリンピックに出場している人みたいな人ばっかりが障害者じゃないんだよ。

もっと理解の及ばない障害者はあなたの身近に潜んでいて、あなたの不理解無理解を試すほどに反応をよく見てる。あなたの醜く歪んだ憐みの顔を、誰よりもいち早く察知する。そして思われる、ああ、不理解無理解だ、とね。

わたしはそこいらの人よりかずっと、障害に理解があると思っている。自身も障害者であることから、「障がい」って書き方すらめんどくせえな、と思っている。

健常者の不理解無理解は、障害者にとっていつも的外れである。

いらん気遣うなら、いっそ無視してほしい。これに尽きるのである。いや、遣ってもらうと言うより力を借りなくてはならない場合がある。その場合こちらはくそほど気を遣うのである。

しかしその「気」の温度差たるや、月面の表と裏くらいだ。

 

以前、わたしは精神疾患者のみのオフ会に参加した。

参加者に身体障害も抱えた女の子が居た。場所は新宿、階段しかない雑多ビルの5階だった。わたしはにわかに沸き立つ店を決めた奴への怒りとこのお荷物…と思った気持ちを忘れられない。

夜も更け、二件目と移動しようと、ようやく地上へ降りた。その時にわたしの中から、彼女がお荷物である感覚は抜けきっていた。事実、お荷物ではなく自力でまあまあの速度で車いすを進めていったからである。

しかしこのあたりから男性陣が次々と帰宅。新宿駅東口の階段前で車いすと非力女子とわたし、の3人で取り残されたのでした。

始発は動いて居るものの、まだ駅へと繋がるエスカレーターは動いていなくて、仕方がないから非力女子を上で待つように指示し、車いすの女の子をおんぶして上がり、さらに戻って車いすを運んだ。火事場の馬鹿力ってこのとこかな、と言うくらい酔っ払いには重かった。そして力の抜けた人間を背負うってこんなに大変なんだ!と気づきもあった。

いや、その時はただひたすらに先に帰宅した男性陣が恨めしかった。

 

まあ、そんな事を思い出してこんなことを書いているんだけれど、わたしにとって実際に何かしらを強いられたらわたしは、障害者が面倒ではあるよ。でも、わたしにとっての面倒は

道端でしょんべんしてる野郎も面倒だし、酔っ払って食って掛かってくる女なんて余計に面倒だし、そんくらいの認識だよ。障害者も健常者も面倒なら十分迷惑。

そんくらいの認識くらいまでは理解した方がいいんじゃねーの。