自分的あるある、な夜
なぜだか私は夜に色々思う。まあ大概酔っぱらっているからだろうけど。
誰だったかな、酔いどれに本当の創作活動はできないって言ってた人。
なら私は完全に本当の創作活動はできない人だし、別段どうだっていい事だ。
ニーチェだって私を納得させないし。精神は体の玩具だって?
ふざけるな、と言いたいよ。
今現在、私、心身症でしてね。声がなかなか出ないだとか、節々が痛むだとか、指先の感覚が過敏だったりとか。所謂ヒステリー状態にありまして。
まあ、そんな事ここではあまり関係ない、と言いたいところですけど、PCからなので指痛い。タイピングが痛い。スマホからの方がなんぼかよかった。タイピングしてみていきなりの後悔。ふたなりの兄弟。嘘、遊び心。
いやいやいや…参りましたよ。今宵は。
「みんながみんな同じ痛さじゃない」
そんなの分かってた事なのに、人を痛くしてしまった。あまりに痛さに慣れ過ぎて、人の痛さを決め付けてしまう。そんなのダメなのに。同じ様に人も自分の痛さを耐えられるなんて思っちゃいけないのに。
しかも自分だってここ最近のニュースで「痛すぎ!無理!」ってなってるのに
なぜ想像できなかったんだろ?なぜ思い遣れなかったんだろ?と、反省しつつ、発泡酒飲みながらこれ書いてる訳ですよ。
え?思いつめてないの?って?
え?思いつめるって生き死にの場合だけじゃないの?って論点ずれちゃう訳ですよ。
ほーら、おかしい。普通そんなんじゃない。人ってのは健全であるために元々を努力してる訳であって、いちいち私の様に引っかかってるのがおかしいんですよね
でもここ最近の悼ましいニュース見てると、気が違えそうです。いや、実際多分違えてます。
ここまでひどい惨状が日常的に起こっていて、わざわざ知る身にもなってくださいよ、と。
ニュース。真実を伝える、大いに結構。さあ、私達の傷付いた心、どうしてくれよう?
真実を見るべきだ? 無責任にそう言えるのか? 悲惨な現場に立ち会ってる人と我々と何が違うのか? それは覚悟だ。
じゃあ常に覚悟を持ってわざわざTVショーを見なければいけないのか?否。
私たちはいつだって、欲しい情報の取捨選択の権利がある。
見たくないものに目を覆って、見たいものを体感する権利がある。
だから、戦場ジャーナリストの存在はいつだって話題に上がるのだ。
欲しい人には与え、要らない人には届かない、今そういう選択肢を選べる技術はいくらでもあるじゃないか。
扇情的なマスコミと、野次馬的な人との間で、「頼むからやめてくれ」そう叫びたいけど叫べない人は多分いくらもいる。実際に私の身近で、本当に身近で、そんな人がいたのだから私の考えは特段おかしいのではないのだとわかった。
「情報の取捨選択」
今後の莫大なる現在の情報社会においての課題であり、人々の心を豊かにするという意味でのジャーナリズムに必要な「優しさ」ではないだろうか。
真実を伝えることばかりが正義ではない。人の心と向き合う精神こそが、今必要なのではないだろうか。